高島 芳幸 展

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高島 芳幸 TAKASHIMA YOSHIYUKI
用意されている絵画-その風景/場への距離に 色を注す-


2024年5月24日(金)-6月 4日(火)
12:00-19:00 (最終日17:00まで)  ※日曜開廊 水, 木曜休廊





 

追補: 5. 6. 素材.  米袋, 床に米粒.
















高島芳幸の「用意されている絵画」を読む

2024/4/24  前山 忠( 美術家 )
※敬称略


■はじめに
  なかなか意味深なタイトルである。なぜなら、「用意されている絵画」は本来どこにも
存在しないはずである。にもかかわらず「用意されている」とはどういうことか。
  高島の絵画の素材は、主として綿布、紙、段ボール、板・角材、菓子箱などであ
る。いずれも既に社会に出回っている既製品だ。作られたばかりの真新しいものか
ら利用・使用済みのしわや汚れのあるものまで、多様である。
例に綿布を見ると、四角な木枠・角材に綿布が張られている。綿布自体が少し伸
縮性があるので、縁を鋲で張ると下に隠れた木枠の角が浮かびあがってくる。ピン
と張りつめた白いモノトーンの正方形がくっきり出現する一方、枠からはみ出た布
は断ち切ったままの少し緩い感じの正方形となっている。そして浮かび上がった正
方形の淵に沿って、わずかばかりのアクリル絵の具の短い線(大概白か黒によるド
ローイングともいえる)が引かれている。
  見た目には、白いキャンバスの淵に数本の短い黒い線が描かれただけのシンプル
 な画面。それのどこが「用意された絵画」なのか。高島にとってはこの作品は紛れ
もない高島が制作・表現した世界で唯一無二の絵画であり、創造物である。「用意さ
れた」どころか、高島が作り出した「どこにもない」「用意されていない絵画」である。

 ■「概念」の転換
  ということは、「用意されている絵画」と「用意されていない絵画」は、私にはほぼ同義語
に思える。ことばの上では対立概念・矛盾だが、「絵画」として歴然として成立して
いる現実がある。この矛盾をどう解釈すれば良いのか。
  ここでは「概念」の転換が重要な意味を持つ。まず具体的に目の前にある綿布や
紙であるが、人間がある目的のために作り出された(加工された)物(物質)であり、
既成物である。ある目的とは、キャンバス地や布として人間生活の用途に適うため
のものである。普通はそれ以外の使用目的は製造段階では想定していない。しかし、
いったん出来上がった綿布は、別の意味や目的に使用されることを拒まない。つま
りどのように使用しようが活用しようが、使う側の勝手であり自由である。既成物
の意味と目的が異なったり変化したからといって、誰からも文句を言われる筋合い
はない。
例えば綿布でズボンを作ろうが、バッグを作ろうが、足ふきに使用しようが、燃
やそうが、使う側の勝手だ。本来の用途でないからといって元の製造者や販売者か
ら異議申し立てはないだろう。ここでは物体・物質としては同じでも、「別のもの」
として「使用」かつ「存在」させられた<変化>が生まれている。つまり別の物と
して使用するという「概念」が介入しているのである。
100年以上も前のマルセル・デュシャンの「便器」は、まさにそのことをアート
として提示・成立させて見せた。店から購入した「便器」は本来の使用目的であるト
イレにではなく、オブジェ作品として使われた(表現した)訳だ。便器そのものは
社会的に認知された使用目的に沿って職人や工場によって作られ、店頭に置かれた
ものである。物理的には何の加工がなされなくても、「別の場所」に「別の目的」で
置かれれば(使用されれば)、「別のもの」として存在することになる。そこでは何
が「別のもの」にするのか。言うまでもなく人間の「介入」・「概念」に外ならない。
誤解のないように一言するが、概念を重視するからといって物質や既成物を軽視
したリ無視したりするものではない、むしろ逆にありのままの物質や既成物を存在
として最大限認め、無条件に受け入れていると言える。言ってみれば、既に存在し
ているものは自然的条件として、世界の在り様として認め、変化や偶然性をも作品
の一部若しくはほとんど全部を容認・取り入れている訳である。
背景にある高島の思考には、おそらく自然物・人工物を問わず万物は本来「意味
を持っている」訳でも「意味付けられている」訳でもない、との価値観があると思う。

言い換えれば、すべての物や現象は人間が意味・意義づけしているにすぎないので
あって、物・物質自体に意味や価値が備わっている訳ではない、ということになろう。

すべての物・物質は等価であり、優劣も有用・無用もないということだ。
 裏返せば、「世界」のすべての物や現象は、人間向けにできてはいないというこ
とでもある。物質そのものの運動と性質、そして関係性の中で常に変化しつつ、生
成と同時に消滅が同時進行する、絶えず変化している「世界」で起こっていること
である。そこに人間の「身勝手」な意味づけ・命名・使用によって、あたかも絶対
であるかのように世界を解釈し、利用・支配してきた歴史がある。それが破綻する
場面に出くわすと、「自然災害」とか「不可抗力」などと一方的に「自然」の責任に
してしまう。
 しかし重要なことは、アートとりわけ現代美術にとって、既成の固定的な概念を
破壊し・揺り動かす契機を生み出すかどうかにある。その原動力はまさに「想像力
」、「精神活動」、「観念・概念」にある。アートは絶対性を排す、アートは既成概念
を乗り越え、そして更に乗り越えた新しい概念自体を破壊して行かねばならない。
我々は、終わりなき弁証法的な運動の真っ只中の「いま」・「ここ」を生きているの
である。
現代美術に懸ける行為の根底には、以上のような立ち位置があると思われる。素
材の扱いや位置づけに固定的なものはなく、いわば無限の可能性と多様性を引き出
すところに「創造性」がある。高島の「用意された絵画」もこうした背景のもとに
生み出されていると見る。

■コンセプチュアルな絵画
話を具体的な高島の作品に戻そう。前述したように、彼の使った(取り上げた)
布や紙の既成物は、本来の使用目的に沿って他人の手によって生産されたものであ
る。それを別人(作家)が全く別の目的で使用する時、つまり別の概念で使用した時、

物理的には何の変化がなくても、「別のもの」として成立している。高島の「絵画」
もそのようにして存在しているのである。
そこで使われた素材は、これまで既成概念で成立していたレディメイド(既成物
)である点で、全く「用意された」ものでも絵画でもない。しかし、それを別の概
念で取り上げた場合、全く別の存在物となる点で新たな「絵画」となるのを、これ
まで見たとおりである。
しかしこうした既成物がなかったとしたら、高島の作品は生まれ得ないし、存在
 できない。別の言い方をすれば、既成物のおかげで作品が出来上がっている訳であ
る。物質的・物理的に見れば、作品のほとんどは既成物によって成り立っている、
つまり作品のほとんどは既に「用意されている」と言えるのである。そいう点で「
用意されている絵画」ということになる。しかし、ここで「概念」が新たな物・作
品に仕立て上げているという点で、全く新しい作品・表現として立ち上がるという
ことでもあり、「用意されていない絵画」(今まで見たこともないような絵画)でも
ある。
つまり既成概念を覆してあるいは超えて、新しい概念が打ち出されたということ、
これはコンセプチュアルアートの基本的な理念・哲学でありコンセプトである。
  
 □<創造>とは
かって描かれた絵画やイメージが絵画の重要な要素だったのに対して、現代美術
においては「概念」の変革や拡張が作品成立の重要な要素となり、「創造」の核心と
なったのである。これはまさに美術における革命である。
「創造」は何も新しい素材や技法・技術だけを指すものではない。構図や配色、構
成・構築などで絵画が成り立っているというのは、過去のものになりつつある(も
ちろん、無くなるということではない。これからも継続していくとは思う)。現代で
は「つくらない」作品もあるということ、概念が重視される作品が現代美術の中心
を為すに至ったのだ。
99%の既成物を使うという点では、高島の「絵画」は物理的には「用意されてい
る絵画」と言えるが、99%の新しい概念で作品が生まれるという点では「用意され
ていない絵画」の誕生だと言える。
できるだけ「つくらない」作品・表現を模索する高島には、「用意された絵画」が
意味する人間の振る舞いを超えた物、自然、世界への限りない敬意と愛着が込めら
れていると見る。と同時に人間のおごりを極力抑制する謙虚さが作品から感じ取れ
る。
このように高島の表現・「絵画」は、ミニマムであると同時に優れてコンセプチュ
 アルな作品といえる。私もコンセプチュアルアートとミニマルアートをくぐり、そ
 の精神と革命性を今日の表現としても持続・拡張する意義を感じるが故に、高島の
 一貫した表現姿勢に共鳴すると同時に高く評価するものである。
※余談になるが、先般、Gallery DODOで高島の最近作を見る機会があった。
   基本的な作品傾向には大きな変化は見られなかったが、綿布や紙にわずかに施
された点・線が、これまでの白や黒から黄や橙の色味に変わってきたのが、気
になった。
最少表現かつ色も無彩色となり、行き着くところまで行くと、いわゆる「行き
詰まる」のは分からないでもないが、これまでの追究してきたミニマルな表現
からは一種の後退と私の目には映る。
別の要素(例えば色彩や素材)を加えることで、複雑な効果や展開が可能にな
るのか疑問だ。もっと「純化」・「徹底」する方向にこそ可能性があるように思
える。もちろん、これは私の個人的な印象・感想に過ぎないが。

□<平面>を問う
高島の作品でもう一つ指摘しておかなければならないのは、<平面>へのこだわ
 りである。綿布や紙の一方の「面」を、作る側及び見る側にとって見える状態にす
 る上でとりあえずは「表」とするが、それはひっくり返せば「裏面」が「表」にな
 る。相互入れ替えが可能であり、どちらかが予め「表」と「裏」に決定・固定され
てはいない。
ここでもやはり「概念」がそれを決めていることになる。本来の物質や空間には
「表」も「裏」もない。人間の視線さらには社会生活上都合がよいから歴史的に概
念化され流通してきたのである。
このことを別の言い方をすれば、<制度>として定着してきたと言える。<制度
 >は社会的・政治的な仕組みやルールにとどまらず、芸術や宗教に至るまで人間社
 会の隅々まで浸透している。
もちろん人間(その多くは支配者・権力者)が歴史的・支配的に作り出したシス
テムでもある。当然自然界には存在しないしくみである。人間が自分に都合の良い
ように解釈し構築してきた故、時代とともに変化・変貌するのはもちろんのこと、
「絶対」ということはあり得ない。
美術でいう「美」や「絵画」自体も、歴史的に形成・概念化されてきたのは言う
までもない。厄介なのは、いったん制度として社会的に認知・流通すると、人々の
認識や意識や感情さえもその影響を受ける。更にそれが固定化されると、ものの見
方や考え方まで、本人が意識するしないにかかわらず共通概念化されてしまう。世
にいう「常識」とはこのことである。現代美術はこうした常識への反発・反乱・反
抗によって生まれてきた「新しい概念」で成立してきた。
話を<平面>に戻すと、厳密に言えば<平面>は物理的にはこの世(世界)に存
在しない。水面や海といえども重力からは自由でなく、平らではない。真っ平と言
えそうな1枚の紙やガラスでさえも例外ではない。あるのは立体であり、空間であり、

質量である。そもそもこれらは「歪んでいる」となればなおさらである。
ではどこに<平面>は存在するのか。人間の脳の中にある。つまり人間が概念と
して作り出した抽象的な「平面」ということである。数学的には3点を直線で結ぶ
と平面ができるということになるが、この「点」及び「直線」そのものも、人間が
考え出した「位置があって容積のない」点であり、真っ直ぐな線つまり概念として
の「直線」なのである。
現実の日常生活では、直線も平面も当然のごとく存在するものとして流通させて
いるし、それで問題や支障はまず生じない。厳密な規定よりも実生活上の便利さや
共有化・効率化を優先しているのである。
かっての絵画も壁や天井、更にキャンバスに描かれた絵は、「平面」であるのを
前提にして成り立っていた訳だが、フォンタナがキャンバスを切り裂いて、絵が単
なる<表面>でしかないことを暴き、見せた。それだけではない、イリュ―ジョン
(錯覚としての奥行)から解放された新たな絵画の世界を表現・作品として提示・
成立させた。これ以降は既成の風景画や人物画更には抽象画などの表現とは異なる
<平面とは何か>が現代美術の主要なテーマとなったのである。
 言い換えれば、これまでの画面上に込めた「情念」、「イメージ」、「物語」、「構成」

などから解放された地平に立ったのである。今日、「絵を描く・つくる」際、このテ
ーマに作家が独自の挑戦をしている訳だが、その多様性や概念の拡張は止まるとこ
ろがない。
高島の絵画もこうした現代の流れを踏まえた、「平面」を根底的に問う作品といえ
る。こうして高島の「用意されている絵画」は、「どこにもない絵画」として成立し

ている。そこには既成概念を跳び越える軽やかさと爽やかさに溢れている。

□表現における個と社会
現代はグローバルかつ情報化社会と化した世界に在って、傲慢な人間の欲望は留
まるところがない。それを形にしたのが資本と金であり、自然・物質の独占化である。

その権益を巡って力の論理(最後は軍事力)で支配すべく、絶えざる戦争が繰り返
されている。文化や美術においても、その論理と思想が支配的となっており、概念
の変革と拡張を旨とする「純粋な」表現活動を歪めていると思われる。
そうした支配的な価値観や権威にあやかろうとしたり追随する傾向は、美術市場
にも顕著に現れており、「売れる作品」に拍車をかけている。若者にもこの傾向は色
濃く反映しており、学生時代から流行や売れ筋を目指す傾向さえ見られる。土台と
なる哲学(美学)も思想も貧弱か不在であるというしかない。感情(これはこれで
重要ではあるが)や自己愛・内向きでイラスト化したパターンが顕著なのは気にな
るところだ。表現は徹底して個人的表現であると同時に、作者は社会の一員として
の社会的表現を免れることはできない。そこに社会的な関係性(批判や対立を含め
て)を踏まえた「普遍的な世界」の表現の根源を忘れたくないものだ。
現代は○○主義(○○イズム)や潮流(集団的前衛表現の模索)が流行らない時
代であるが、さりとて個々人がバラバラに「絵日記」を描いていて良いというもの
ではない。
繰り返すが、<表現>は個の表現であると同時に社会的な表現である。だからこ
 そ個人の自由だけでなく社会的な自由が何よりも尊重かつ重要視されねばならない。
 今日、この<自由>が危うくなってきている。国家や権力者による都合で「表現」が
 制限・支配されようとしている。物や世界を人間の都合で決めつけ・支配しようとす

るのと重なる。今こそ<自由なる表現>のために抵抗し確保すると同時に、既成概念から

の自由と抵抗、そして「逸脱」を生きることが重要と強く思う。   <完>





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プロフィール

高島芳幸(1953年 茨城県生まれ)


真木・田村画廊(東京/1988~1999)やギャラリー現(東京/2001~2017)、SPCギャラリー

(東京/2003~2020)、トキ・アートスペース(2020.22/東京)を中心に作品を発表。絵画の

成立する基本的な要素を見ることと描くという行為から絵画を探る作品を発表する。並行して

野外や日常的な生活空間を同様に確認していくインスタレーション作品の制作も続けている。

最近ではMDUS Art Projectを日本各地で展開、1945年の松代大本営を起点に場所の歴史や記憶

との関係をテーマとするサイトスペシフィックアートとして取り組んでいる。


主な個展

1999  「関係 July.1999」(真木画廊/東京)88.89.93.95.97. 

2003   平面と立体の間-インスタレーション・高島芳幸-(うらわ美術館/埼玉)


2017  「用意されている絵画-シカクヲカク-」(ギャラリ一現/東京) 01.05.07.09 .10.12.14.16

2019「用意されている絵画-視覚・関係・所有-」(アトリエ・K/横浜)15.

2022 「用意されている絵画-日常/絵画場へ-」(るーぶる愛知川/滋賀)

 「用意されている絵画-イキルシカク-2」(トキ・アートスペース/東京)20.

2023  『楽風』に入る。ミズモヲカク (ギャラリー楽風/浦和)


主な展覧会

1999  国際現代美術展「波動1999-2000」(光州市立美術館/韓国,県民ホール/神奈川)

2009  まつしろ現代美術フェスティバル2009(旧松代藩文武館/長野)

2017  中之条ビエンナーレ2017 (中之条町旧五反田学校/群馬) 09.11.13.15

2018  中津川のフタツのシカク高島芳幸×内藤晴久(ギャラリー彩園子Ⅰ・Ⅱ/盛岡) 

田人の森に遊ぶ ART MEETNG 2018(田人/福島) 09.13.14.16

2019 不在の絵画 倉重光則+高島芳幸(ギャラリー睦/千葉)

2021 歴史的建造物と現代美術「時のきざはし」(旧高野家離座敷/さいたま)

風景を開ける 大川祐 高島芳幸(gallery DEN5/東京)

   精神産物構想2021 Artistic chemical reactions 高島芳幸×山岸俊之(SPC GALLERY/東京)

2022 かがわ・山なみ芸術祭2022(モモの広場・旧木工所/塩江・香川)13.16.19.20

赤で彩るアート展in 吹屋(旧片山家住宅/吹屋ふるさと村・岡山)

2023 50th現代アーチストセンター展「ビジュツ行動セヨ」(東京都美術館)

どこかでお会いしましたね 2023(埼玉会館/さいたま)13.14.15.16.17.18.19.20.21.22

意識の表面 小笠原卓雄×高島芳幸(ギャラリー彩園子Ⅰ・Ⅱ/盛岡)

アートフィールドいわて2023(盛岡中央公園/盛岡)

   NOTHING(ギャラリー湯山/十日町)

精神産物構想2023 もののあはれ、いしのあらわれ高島芳幸×勝田徳朗(SPC GALLERY/東京)

HAKOBUNE(旧磯浜青少年センター/三浦)

またお会いしましょう-対極を超えて-(埼玉会館/さいたま)

エスプラナード展2023(埼玉会館エスプラナード/さいたま)19.22

遊・桜ヶ丘現在進行形野外展(原峰公園/多摩)