Dogma of SPIRIT PRODUCTS 2016 Produced by Tomohide Nagakura
玉征夫 高島芳幸 永倉知美 展
Take the A line (on the Incident)

開催日程
2016年5月9日(Mon) ~ 5月21日(Sat)
PM12:00~PM7:00
Closed on Sunday
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玉 征夫 「事変の夜」 2016 / Oil on Canvas F20, F0 / 平面
「事変の夜」 玉 征夫 作家プロフィール
この作品のきっかけは、19世紀のパリの上流社会で流行した下着の図版を見たことであった。それはクリノリンと言い、馬の毛や鯨の髭、針金などで制作した提灯の骨組みのようなものである。
私はこのクリノリンをベースに女性とおぼしき人型を描いて見た。やはり戦前、戦中の夜会を連想させる絵になってしまった。もっとも生身の人間ではなく、人形のイメージで描いたつもりだが、どう見えるだろうか。タイトルを「事変の夜」としたのは、日華事変の頃、父が兵士として満州にいたことと無縁ではない。変わり始めた昨今の空気に、少なからぬ不安を感じているからである。私の同年代の作家によれば、今は戦時中と言う。私も同感である。いささかクリノリンの描き始めから脱線したが、良しとしよう。 2016. 05. 08

高島 芳幸 M.D.U.S. Art Project 11「関係 May. 2016 in SPC GALLERY / あるいはSPC GALLERYの南と西の壁 / 床を象山地下壕のズリとゴム糸で確認する」/ 火成岩 (石英緑閃岩など), ゴム糸, ピン, 他 / インスタレーション
M.D.U.S. Art Project 高島 芳幸 作家プロフィール
日本は、敗戦濃厚な第2次世界大戦の末期、当時の軍部が中心となって、天皇・皇后、大本営、政府機関を長野県松代一帯の岩盤の強固な地下に移す計画を立てます。1944年11月11日の初めての発破工事から1945年の8月までの9ヶ月に渡って、多くの朝鮮人や日本人約1万人の過酷な労働によって象山地下壕の建設が続けられました。地下壕の総距離は約10㎞になります。
M.D.U.S. Art Project (Matushiro Daihonei Underground Sherter A.P) とは、日本各地の建築物や自然の中の空間を、象山地下壕建設工事で掘り出された岩石 (ズリ) などで確認し、象山地下壕から現在の日本を見ていくプロジェクトです。 2016. 05. 27 現在 
永倉 知美 Diva on the Incident 2016 / レディメイド, ミクストメディア / 立体・インスタレーション
「展覧会 “Take the A line (on the Incident)” の趣旨」 永倉 知美 作家プロフィール
今展DM にある小さな4桁の数字にお気付のことと思う。 実は参加作家3名の生誕年であるが、ちょうど9年毎の差があり、またこの9年毎の延長線を辿ると奇しくも2016年、今年に至る。云うなれば風水にある二黒土星の年なのだが、数字に意図したところは、戦中に始まる年代毎のそれぞれの幼少の頃の景色の違いであり、また戦後(被曝)70年超となる歴史であり、そして現在である。
展覧会名を直訳すると「(事変の上に) A ラインを取る」となるが、事変は婉曲(えんきょく)的には戦争なのであり、ウェディングドレス等に見られるAラインとは、祝福でありまた無垢である。この意味は、戦争を祝福することの真逆であることは云うまでもない。
「私もシャルリーだ」と、ここに宣言しておこう( je suis charlie で検索 )。 2016. 05. 08
Post-report Collection 2016 再掲載日: 2022/03/19
"Take the A line (on the Incident) " (Aライン文書) 永倉 知美
「原初の恐怖」その兆しと混沌。
「CHAOS とは絶望を知らない原初である」
絶望、そして「原初の恐怖」と云った事があるならば、それは人となる兆しが、現れた瞬間から始まるのかもしれない。
そして我々は、その事を知っている筈なのだが… 失意は、また忘却する事によって、明日は希望へと変化するのか、いやあるいは、忘却する事なく絶望は克服しなければならないのか… 実際、後者は酷であり、苦痛が伴うだろう事を、但し目を逸らしても良いのか悪いのか、と云った苦悩は、よもの嵐の中で改めて混沌となる。それは、失意、絶望を知った混乱であり、また無秩序である。
「絶望は死に至る病である」と、セーレン・キルケゴール (1813-1855) は云った。この場合の絶望者は、その忘却と絶望の二律背反に死ぬ事が出来ない。「自己の内なるこの病は、永遠に死ぬ事であり、死ぬべくして死ねない事である。それは死を死ぬ事である」という理屈になる。しかし、絶対的過程の中にあるこの言葉は、正に生なのであり、死そのものとは区別しなければならないし、また人は、その生にあって、出合わなければならない矛盾と混沌、また不条理に対峙し続けなければならないのだ。
だがまた、絶望死と云った事実にも目を瞑る事は出来ないだろう。2011・3・11 東日本大震災と福島第一原発に起因した自殺者数が、震災から5年を経過した今も一向に減らないと云う。原発事故による避難生活で、心身の状態が悪化している為とみられるが…
大地震、原発事故、頻発するテロ、そして今日の日本に於ける政治。近隣諸国との摩擦。もはや何が引き金になって「事変」が起きてもおかしくない。「事変」とはまた「原初の恐怖」を掻き立てるものであり、今や誰もが、不安感を拭い去る事が出来ないだろう。
右にも左にも曲がれない一本道で、原発問題を背負わされ、なお正面から戦争が向かって来ると云った、とんでもない図式である。反原発、反戦を唱えども、現実には誰にも止める事が出来ない。況や、可能であるならすり抜けたい… そう思うのも、また人の情か… しかし、何処へ逃げようともユートピアなど存在しない。
振り返れば、これ程まで危急存亡の時と感じ始めたのはいつからだろう… 震災以後、5年前辺りからだろうか、いやそんな筈はない。感じ方には個人差もあろうし、報道の重大性、その記憶、また身に迫るかもしれない現実味にも左右されるだろう。
個人的な話かもしれないが、何か言葉にならない様な不穏な空気を感じる。ただ臆病風にでも吹かれて来た、という訳でもないのだろうが… だが、実際にはいつの頃からだろうか、その兆しを感じ始めたのは… 心か、あるいは体内に宿りし不安の種とでも云うべき何かがあるのは… 妄想か現実か見極めなければならない。
覚え書き程度の、私的 SPC の軌跡
1990年代初頭のバブル崩壊、70年代からの安定成長期は終焉したが、一億総猛烈社員時代とは裏腹に、平和ボケ日本は、2000年代初頭迄で既に30年間に及んでいたと知るべきか。実際、インスタレーションと云った手法による、売れない (売らない) 作家活動を行なってきた私にとっては、バブルによる損失など一切感じられなかったし、自分を取り巻く環境や、若さの所為もあっただろうか、逆に時代の空気は引き続き生ぬるく感じられていた。
1999年7の月には大魔王は降ってこなかった… がしかし、2001・9・11 は突如舞い降りて来た。ほぼ1日で合計犠牲者数3000人超、内24人の日本人犠牲者を出している。映像はひどくショッキングなものとして記憶に留まったが、果たしてこの頃からだろうか、世界に、時代に不穏な空気を感じ始めたのは…
私事。上に同じ頃、99年 神田美倉町で小さな出版社を経営していた父他界。00年 同社の引き継ぎと、経営刷新。また、相続のため財産管理に奔走。01年 日本橋兜町にある小さなビル取得。同年末 同ビルにてグループ展を企画開催、参加。02年 同ビル (現SPCビル) 改装並びに画廊設営準備。03年 SPC GALLERY 開廊、主宰。同年 離婚。04年 同社を解散、出版業から撤退。同年 スピリットプロダクツ株式会社 へ社名変更。同社 代表取締役就任へと至る。さて一見山あり谷ありだが、ずば抜けてどうのという事もない。凡庸だが、とりあえず平和裡にやって来たのだと云える。しかし何らかの欠落感と云ったものが、いつの頃からか感じられるようになってきた。つまり方向性が見えてこないのだ。そして 07年 各種トラブルの為、一時休廊。同ビル内、自身経営の別会社を整理、譲渡。その季節は実際、あまり明るい話題はなかったか… そして不穏な空気は、また以下に並行接続される。
ここで当時の世界動向を見るに、現実は戦争のオンパレードである。01年 9・11 に端を発するアフガン紛争。同年 インド洋に日本の海自が後方支援、国内世論でも改めて問題視された。そして、開廊当時 03年 と云えば、正にイラク戦争勃発の年なのである。また、アルカーイダが、日本の首都に対しての攻撃に初めて言及したのも同じ年であった。米英伊等の属国と認識するのも当然であっただろう。前後するテロは、激化の一途を辿る。その後イラク戦争は、04年 には形式上復興支援となるが、事実上は戦闘状態。06年末 その4年間で米軍の戦死者数3000人超、同年 フセイン元大統領死刑執行。07年 には既に、イラク・イスラム国を名乗る武装組織が一部のテロ活動に対して犯行声明を出している。またこの戦争は 09年 には、ほぼ終結するわけだが、アフガン紛争にあってはこの後 11年 ビン・ラーディン殺害へと続き、現在もなお米軍の完全撤退には至っていない。
さて話題を SPC に戻そう。06年 以降、当ギャラリーは、社内外の事柄も折り重なって、いささか低迷気味ではあったが、07年 ギャラリー改装を経て、08年 再開廊。そして 09年 社名を冠した "SPIRIT PRODUCTS 展 -精神と物質- " を開催。2名の作家によるコラボレーション展を連続展開する。主催者の目線で云うに過ぎないが、手応えは有り、また静かだが相応なる評価を得られたと云える。果たして開廊から7年目にしてようやく巻き返し、ギャラリーカラーとでも云うべき中心核に辿り着いたと云う訳だ。
そして09年のターニングポイントから、また早7年、現在の "SPIRIT PRODUCTS CONCEPTION"「精神産物構想」へと繋がっている。これは、各々の作家同士が、そのコラボに当たってテーマを出し合い、コンセンサスを得、また同時にギャラリーが、そのコンセプトを増幅する役目を担っていくというものである。良質にして自由な展覧会作りへと、切磋琢磨できる現場環境を提供する事には、一定の成果を得て来たと自負している。それはまた、従来の2人展、グループ展とは一線を画すものとなり、充実した空間を現出させる、「見えない装置」を組み立てていく構想だと云える。
がしかし、そこまでか。作家の売り出しや、作品販売へとは、なかなか繋がらないものである。またギャラリーの役割は、より広範な社会へ、多様な美術のあり方をアピールしていく事でもある訳だが、こと現代美術を社会へと送り込んでいくパイプが解放されない。いやパイプそのものを作らなくてはいけないのだが、社会の受入れ方の許容にも見合わず、未だに、閉塞的状況を打破する機会を掴めていない。但し、街の私設画廊の限界と云って諦めている訳ではなく、打開策を模索しつつ、SPC には、SPC なりの特徴を、引き続き打ち出していく必要がある事は当然理解している。まだ出来る事はある筈だ。
思い返せば SPC とは、私が1983年頃、「スピリット・プロダクツ・カンパニー」として構想 (夢想 ?) したものの略称であった。まさかしぶとくもここまで引っ張って来たとは、我ながら不思議だとも思える。《 精神産物会社 》と云った仮想的観念は、駆け出し作家の頃、影響を受けた、マルセル・デュシャン (1887-1968) 、ヨーゼフ・ボイス (1921-1986) 、松沢 宥 (1922-2006) らの概念美術、そうした中に存する言葉遊び、及び反芸術の遺伝的連鎖から生まれた、可視化出来ない (させない) 不定形の作品であった。また同時期、ルドルフ・シュタイナー (1861-1925) の精神科学による影響は、この《 精神産物 》たる見えざる作品 (芸術の広範な理解、あるいは、常に「不可態」という名をして体と成す) を理論化する方向へと私を駆り立てていく事になるが、規模の不確定性から、概論執筆には至れなかった。しかし、それはまた当時、自らの個展、企画展等の制作会社名として、でっち上げたものとも云える訳で、上述の位置付けはあれども他者から見れば空虚なものだったに相違ない。
《 精神産物 》ただそれは、ジャンルとして提示したものでも、派閥名、イズムとしたものでもなかった事から、有名にもならなかったのは当然だが、古くもならない、解放された「自ら成長する生きた概念」として再び提示する機会を得て来た。
「不定形のものを秩序ある形にするのは、物理的な力ではなく、有機的で流動的なエネルギーである」とは、ボイスの (社会彫刻) 理論の礎である。しかし「いかにして見えざる作品を、秩序ある装置として機能させることができるか」と云った自らの命題は、上述の構想 (当初は会社芸術) 、夢想から4半世紀を越えて、"SPIRIT PRODUCTS CONCEPTION" として生まれ変わり、ようやく現実のレベルに着地することが出来たらしい。
蛇足だが SPC と云う名称は、別組織や、諸々の略称として使用されているが、元ネタをネット上で検索しても当社、当ギャラリーしか出てこない。
"Dogma of SPIRIT PRODUCTS" への経緯
2012年 当ギヤラリーに於いて自らの個展を開催。展覧会タイトルを "Retort of META DOGMA" とした。誌面の都合上、趣旨文書並びに展示作品は、当ギャラリーHP アーカイブ2012 ( spc gallery で検索) で御参照願いたいが、ここで抽出すべき事が2点程ある。一つはタイトルにある "DOGMA" だが、実はそれほど特別な意味を持たせてはいなかった。教条主義など、あまり良い意味で使われる事はないだろう単語である。せいぜい自分の画廊で個展 (企画) をやろうと云う、反贅沢な試みに対して使用したと云ったところだ。4年前の趣旨文書では "META DOGMA" を、「妄想装置」などとしか説明していない。少々、毒気付いているとも云えるが、「この上ないエゴを実装する」と云う意味で、この造語は、その後も度々個展に使用している。また、この話題をピックアップした理由は、後の一件と合流する点で御理解頂けるだろう。
そして今一つは、この個展に出品した、作品の内1点《 VENUS WHITE 》について。この作品は、向かって左側に対をなす1点と共に、2009年 現代アーチストセンター展 (東京都美術館) に出品したものに少々手を加えたものである。発表当初の作品タイトルは、失念してしまったが、その当時、とある作家が見るなり「これデュシャンでしょ」と云われた。そもそも花嫁と、なにやら独身者の機械の様な物々の画像が「大ガラス」の配置さながら、デジタルコラージュされているのだから、そう解らない筈がない。パクリとは沙汰の外、オマージュも少々呆れる等々と思いながら作成していたのを思い出す。デュシャン爺が生きてこれを見たならば、一笑に付されるか、鼻にも掛けなかった事だろう。しかし、この花嫁こそ09年から、また5年後 (14年) の展開に連関して来るとは、その頃はまだ考えもしなかった事である。変化とはまた、ひょんなところから現れるものであるが、何らかの根拠も動機も必要であろう。
さてここで云う花嫁、あるいはドレスを着た人型に話題は移る。当ギャラリーでも出品回数の多い、玉 征夫 (1944- ) 本人について、あるいはここで、作品の変遷等について論じることは避けるが、そのドローイングに、正にドレスを着た人型が現れてきたのが2012-13年頃。出所が違うので、沙汰の外の話は無用。比較的、女性客に人気が有り、当ギャラリーでも数点売れた事から、タブローでも制作してみては如何であろうか、と進言した事があったと思う。そして15年夏、他ギャラリーに出品していた、そのタブローを見る機会があった。タイトルは《 事変の夜 》サイズは、F8とF10であったと記憶している。タイトルと暗めの色調の所為もあってか、その人型の背後には微妙な不安感、いわゆる不穏な空気が漂っているのを感じさせるものとなっていた。また彼は、当ギャラリーの上階で、リトグラフ工房を営んでいる事もあって、画廊で、工房で、度々談話する機会があった。当然この作品《 事変の夜 》の話は、当時の時事問題と相重なって、やれ今日の政治家は近隣諸国はと、話題が尽きなかった事は、およそ御想像頂けると思う。時は正に安保法制反対デモ真っ盛りの頃であった…
そして話題は、次の様に繋がっていく。つまりその描かれたドレスのシルエットが、いわゆる「Aライン」であって、と云々した事から、同時期に、私が自分のインスタレーションで「Aライン」のドレスを度々使用してきた事と被ってくると云う話になる。この事によって、どちらからともなく (?) 、「この際一緒に展示してみてはどうか」と云う下りへと進んだ。ただ普通に考えれば束の間の話である。
ところがこの話題は、その15年の秋「事変の夜」となってしまったのだ。私はこの翌年に、また個展を企図していたのだが、その際に、上に云う展示を、と繋がり、個展のゲストか、2人展なのか、コラボ展なのか、お互いの云っている事が、まったく噛み合わない様になっていた。私はコラボで良かったのだが、彼はゲストを主張する。良く考えてみれば、どちらでも良かったのかもしれないが…
そうこうやり取りはあったが、私には、具体的な形象に纏わる問題も浮上していた。それは、本来「Aライン」の視覚性が起因ではなく… 何かもう一つ問題を結ぶ架橋が見えていない、と云う事だった。止めるも良しだが、振り出しには戻せない… ただそれ (事変 ?) を決行すべき時は今也、と云った点については、お互い同じ姿勢だったと思う。そうした訳でこの紛争擬きにも、どこかで決着を着けなければならない。結果以下の件を踏まえて、私が個展を取り下げ、彼は新作を作るという事で合意。折り合いが着いた… と記憶している。
さてそれは15年の末頃、高島 芳幸 (1953- ) 本人と差しで会談する機会があったのだが、上述の話はとりあえず出さず、この3人のコラボ展と云った趣きで、「Aライン」の話を持ち掛けてみた事による。彼もまた、当ギャラリーでの出品回数は数多く、殊にコラボレートに関しては、エキスパートの一人である事は云う迄もない。ここでは先に、彼のインスタレーションについて少々触れておくが、まずそのゴム紐で作られた矩形の枠は、壁の輪郭ラインを空間に引きずり出し、キャンバスの縁になぞらえる。そのキャンバスには何も描かれてはいない… 否、石を置く事は点を打つ事と同義であり、その矩形の枠は、微妙もしくは大幅に歪まされたりもする。が、このテンションこそ、彼の空間の緊張感と美意識を生み出す鍵となる。またそのコンセプトは、キャンバスを使った仕事にも通底するが、私には、時として施工の一例と映る。また、その石とゴム紐を使用してギャラリーの壁や、それらの空間を「確認」している訳です… と施しても、解らないお客さまには、透明な一枚の壁を想定してパントマイムの練習が出来ます… などと説明している (失礼 !) 。
それはさて置き、彼に声を掛けた理由は、前述の具体的な形象に纏わる問題を解決出来ないかと云う事だった。つまり、実際のところテーマやタイトルを見なければ、観者を具象的視覚愉悦に留まらせ、そこで終わらせてしまうかも知れない可能性を危惧したからだ。
ドレスのシルエットと云った理解し易い意匠、その網膜的な類似性から観者の目を逸らさせる事は出来ないか。異なるもの、一致しない事物の登場は、日常として理解されている制度に揺さぶりをかける事が出来る。延いては、背後にあるテーマ性と、その現実に気付かさせる事に繋がるのでは、と考えたからである。会場には、それぞれの趣旨文を掲示すれば、自ずから意味も浮上する。また傍らで高島作品は、その存在感を示しつつ、全体の空間を首尾一貫、透度の高い状態に保持してくれるだろう、と云った確信があった。
そして無謀な相談であっただろうか、つまり例のズリ、これは「事変」に絡む松代大本営 (1944) の岩石で有り、またそれと、ゴム紐を使ったテンションの作品《 MDUS Art Project 》で「Aライン」を作ってみてはどうか、という事に繋げた。事態は一転した。すなわち、この「Aライン」を基軸とした「事変」合意によって、タブローをその「展覧会の絵」とし、原寸ドレスは「黒鳥と相成りて中空を舞い」、テンションは「緊張感を獲て空間を絞める」、と云った三者三様の荒唐無稽なアッサンブラージュを完成させる見通しが立った訳だ。またこの事は、実際の展覧会の趣旨と機能の増幅に充分拍車を掛ける事に繋がった。
斯くして、ようやくこの展覧会の位置付けに入る。個展でもなく、"CONCEPTION" でもない。観者からすれば、とるに足らない事だろうが、しかしまた、そう良くは知られていない事がある。"Dogma of SPIRIT PRODUCTS" 云うなれば私の隠し玉 (企画枠) がある。
この "Dogma" は、昨今の正にそのエゴたる自分の個展タイトルから持ってきたものである。実はその昔、永倉 知美 (1962- ) は、ほぼその名前を個展タイトルには使用せずに活動して来た。あまりこれと云った根拠があった訳ではないが、 SPC が有名にでもなれば良いと思っていたのだ。また特に初期は、フルクサス (1962) や、ハイレッドセンター (1963) などへの憧れから、常時、他者が介入しても良しとさえ感じていた傾向があった。こうした事も展覧会の趣旨、ひいては作品の解りずらさに拍車を掛けていたのだろう。
思えば、その昔の再現の様に、この "Dogma of SPIRIT PRODUCTS" は、2013年 Produced by Tomohide Nagakura (実は本名) と云う形でスタートした。これがまた何をやっているのかと云えば、某映画監督 (同一人物) が、その監督名と役者名を別けて使っている事と大した違いはない。内容は実際に個展だったのだが、もちろん一件に見分けが付かない観者もいただろう。しかしそんな事はお構いなしだった。記録を残し、当HPのトップ画像等々に使用する事が目的であったからだ。自分的本来の作風なりを払拭したニュートラルな展示が欲しかった。そして翌年の14年には、このタイトルで、本人プロデュースのコレクション展を行っている。持っているだけで、もはや飾る場所もない秀作たちを不憫に思っての事であったが、これも多勢は、常設展なりのものとしか受け取っていなかった様だ。と云う訳で、この企画枠も持っているだけで使わない手はない。そこで上に云う、展覧会の位置付けを "Dogma of SPIRIT PRODUCTS 2016" とする事にした。例えば映画の様に、展覧会もディレクターのものであれば、3人共にゲストでも主役でも良いと云う仕掛けである。
展覧会 "Take the A line (on the Incident) " の行方
ディレクション有りき、と云った展覧会の位置付けは、まずは内々の事。本来、経緯の根幹にあったものは、「事変」と「Aライン」であったか… これを直接結び付ける事は、こじつけても出来ないだろう。問題なのは、時代の動向を端的に示すキーワード、すなわちテーマであった。実は、"Take the A line" とは、スタンダード・ジャズで有名な「A列車で行こう」"Take the A Train" (1941) を捩っただけなのであるが、直訳すれば「Aラインを取る」となる。" (on the Incident) " は「 (事変の上に) 」となろう。( ) に入れた理由は、今ここにある状況が、また限りなく曖昧である所以である。では果たして「Aライン」を、この「事変」あるいは戦争、テロに拮抗対峙させる事は出来ないのか…
ヒントは "Je suis Charlie" にあった。このスローガンは、2015年初頭、パリにある風刺週刊誌 シャルリー・エブド社 が、イスラム過激派に襲撃された後に掲げられたものであるが、そのまま訳せば「私はシャルリーだ」としかならない。このテロ行為によって12人が死亡している訳だが「私もシャルリーと共に痛みを分つ」と、転じて、「表現活動の自由を守れ」と云う武力行為への抗議を意味するものとなった。この事は、実のところ私も後になってから知ったのだが、さすがに芸術と概念の御国柄と感心している場合ではない。 このロジックは、言葉だけでは解釈出来ない内実 (風刺画事件) を付与されて成立しているのだ。
拮抗や如何に、「Aライン」は、ウエディングドレス等に代表される「無垢」であり、「賛美」そして「祝福」の象徴である。あるいはまた、その弾圧に勝利する果敢なる女性のドレスは、破れていても「Aライン」ではなかったか… あの有名な《 民衆を導く自由の女神 》ウジェーヌ・ドラクロワ (1798-1863) 、その絵画を連想しさえすれば良いだろう…
こうして "Dogma of SPIRIT PRODUCTS 2016" は、"Take the A line (on the Incident) " と云う固有の主題と、「 (事変のさなかに) Aラインをかざして対峙する」とした、戦争賛美に拮抗する、内実を伴った展覧会として覚醒する。この長いタイトルの為に、だいぶ誌面を割いたかもしれないが、しかし、テーマ展としても有名な、カッセル ドクメンタ (1955- ) は、開催毎にその主題を変えて、またその内容に見合った作品を作家に要請する。同様に私は、展覧会を位置付けする名称 ( "CONCEPTION" や "Dogma" ) と、その固有のメインテーマ (あるいはサブタイトル) は、また別のものであると考え重視している。
さて、こうして方向性は絞れて来た。問題は自らの作品制作だが、実を云うと私は、密かに (既に個展用のつもりで) 黒いウエディングドレスと、黒いハイヒール (♪) をアマゾンで購入していたのだが、どうにもしっくりこなくなっていた。「事変」たる、もう一つのテーマ要請がある。そうした訳で、ドレスは急遽入れ替えとする事にしたが…
手に取れないあるいは見えないデジタルソースを、手に取れる見えるアナログ物質 (?) で再現出来ないか等々。コンセプトから素材迄、制作ネタを意識的にネットに絞ってきたのが、私の最近のスタイルだった… などとは云うものの、当画廊番兼DTP兼お茶汲みでは、1日中事務所PCの前に座っているのだから、他には如何ともし難い… では、より積極的にネットを活用しようではないかと云うことで、15年末、とりあえず「事変」に関わる記事から当たり始めたのだった。しかし思えば、満州事変 (1931) や日華事変 (1937) は、勉強にはなれども、何かそれを引き出す必然性が、私には欠落していると感じる。原爆投下 (1945) の記事は、事変の延長上解るが、終戦への引き金でもある。またその裏に隠された真実、そして慰霊は重要だが主題から逸れる等々。
そこで新聞記事の画像検索を試みる事にした。幾つかの検索を試みたが、比較的良好な情報が得られてきた。ただ、気になっていた話題をピンポイントで探し出すのでは切りがなく、また恣意的な偏りは意図するところに反する… 盛り込める記事には、物理的限界があるが、人にある連想と云った機能を触発する事さえ出来れば、「事変」とした事柄の総体を浮き彫りにする事も不可能ではない… 問題なのは、テーマに左右される事でもなく、常時あり得る欠落感を、いかにして克服するかであった。
しかしこれは、一般的に各検索サイトに共通する点だが、上位にヒットしてくる情報は、当然検索率の高い重要なものとなる。つまり、民意も善意も悪意さえも含んだ結果であると云える。また検索するワードの配列、検索時期によっても異なった結果となり、完全に同じものは得られなくなる場合もある。つまりこの画像検索は、通常のピンポイント検索と、当方の意図が少々違う事もあって、資料の一挙取得と同時に、自らの恣意性を大幅にカットしてくれる、便利なロボット・ツールとして活用の幅を広げてくれた。
そこでこの検索ワードを、敢えて「9・11以降」に絞り、「戦争暴動テロ」「同時多発テロ」「イスラム国」、そして「事変」に含まれると解釈した「3・11地震津波」「福島原発」「天災人災」と、そのワードの組み合わせを替えるなどして最後に「新聞記事」と入れた。この事によって、データの収集 (16年1月末日現在) については、おおよそ想定した条件を満たせた。
並行して私は、このデータ出力を使用して、トルソーに着せるドレスを制作しようと企んでいた訳だが、データからは色彩を破棄し、かつ諧調を白黒反転させた。元画像の鮮烈さが消えて、なお不気味な印象が得られた。トルソーには、黒のカラーブロード (木綿生地) を巻きスカートの様にしつらえ、ジェルメディウムを塗布して形状を固定。これに張り込む為に出力紙 (A3) を3cm程度の短冊に縦切りする。また張り込む際に左右を読めなくならない程度にずらすなどして動きを付け、同メディウム塗布にて仕上げへと向かう。
結果そのトルソーは、震災原発問題を背負って、なお正面には、テロと戦争の悲惨な光景を現出するドレスを纏う事と成る。そして、その左胸に "Je suis Charlie" 戦争賛美の真逆とは然もありなん…
しかしこの制作過程は、その内容の重さと痛みで決して楽しいものではなかった。当初、拾った記事の中には、あまりにも残酷で凄惨なものが含まれていたからだ。それはまた事実ではあれども、敢えて外すべしと決断に迫られる場面もあった。ただこの事によって、ミクスト・メディア延いては、メディア・アートの理想に、また一歩近付けただろうか。作品は、必ずしも広告塔とならなければいけないとは考えていないが、これを着た100人の女性がパリ市街を練り歩いたら… 等々と想像する事は、我ながら気分の悪くなるものではなかった。しかしながら、ボイスであれば、こうした事はもっと早く実行に移していただろう…
ところで私は、これ迄、ほぼ内発的要因から制作活動をして来たのだと、自ら理解している。現実のテロ、原発等同種記事を用いたのは、初めての事であったが、これは、その「事変」たる外発的要因によって選択され、「Aライン」に適応するモチーフを変化させただけであるとも云える。ただしこの変化には、時代の要請と云っても過言ではない、現実の理もある訳だが…
ここでは先に、前述の内発的要因に触れておきたい。つまり私は、本来的に、これらの社会的動向についてを、作品に取り込む、それを積極的に訴える、と云った事を避けて来たのは事実である。報道は事実を正確に伝える事をその役目とする、とは云うまでもないが、美術にあっては、時事関連をストレートに扱ってはいけないと考えていたからである。また早過ぎれば被害者の心情に反するであろうし、そうした情報発信にはタイミングも重要となる。また外せば今更何を云っているかであろう。そして政治問題然り、右にも左にも傾くべきなかれと考えておれば、自ずから中道を行くしかない。と、こうした考え方は、制作に当たって、良くも悪くも内発的要因に重心が傾くのは道理として不思議ではあるまい。しかしこの時点では、外発的と内発的を二元的に考えていただけなのだが… そしてこの一件は、改めて終盤戦に接続する。
また、今回使用した画像検索とその制作手法についてを、今後も一様式として保持するならば、もう一つ問題をクリアしなければならないだろう。つまり、某検索サイトによれば、画像の引用は可能であり、また記事ごと丸々取り出すことも出来るとしている。が、そもそも、それらの画像の集積は、検索する人への利便性から成立しているものである。実は、各々の画像はネットに流出してはいるが、誰がコピーライトを持っているのか、いないのか、もはや薮の中なのである。但しこの事は、各々の画像が小さく、また色彩を剥ぎ取り、諧調反転させた上に切り刻まれているのだから、ほぼ問題視するところではないだろう。しかしまた、上述サイトによれば、記事の外観変更は認められない… と云う。ダブル・バインド。
「繁栄の後には必ず中世が来る。中世→ファシズム。わが晩年は再び規律とミリタリーの時代が来るであろう」山岸 信郎 (1929-2008)『田村画廊ノート』(2013) より。このメモには書かれた日付が残されていない。またその書籍の編集者には、まだ伺ってはいないのだが、私の推測によれば、1980年代後半、バブル以前なのではないかと思う。であれば、そのメモからまた4半世紀後… 予見は、今ここに着地しようとしているのか… 否、既に現実化している。
思えば氏は、60年安保の闘争者の一人であり、またこれを経た後、69年 田村画廊 開廊。そして70年安保を、大人の目で確と見届けて来た事であろう。氏は、美学と評論の人であったが、また一人の人間として、その後の日米安保の変遷、諸外国のミリタリーバランス、冷戦終結、共産諸国の崩壊等々を冷静に見詰めて来た。01年 真木・田村画廊 閉廊。「老兵は去るべし !」などの口癖には、私もいささか痛みを感じていたが、それはまだ記憶に新しい…
11年 3・11 以降、民主政権はその脆弱さを有々と露呈。 12年末 第2次安倍内閣発足。13年末 特定秘密保護法案成立。そして 15年末 安保理2249決議採択。この文書を物している最中にも、自衛隊に対し、破壊措置命令は常時発令状態となった。これをもって、ミリタリーの時代と呼ばずして他に何があるであろうか。軍国化近し。それはまた過去の様な、言論弾圧、延いては表現の自由が損なわれる時代到来を予見させもするが、今はまだ、不気味な暗雲の向こうに、時折光る雷影の様に見え隠れしている。 この事実をして、氏は如何に憤り、また遺憾の念を示すであろうか…
しかし現代の宗教戦争は、止処なくオーバーランしており、溝を埋める事は限りなく不可能に近い。また元より、アメリカとその属国に浸透する軍産複合体は、切開手術をしても絶対に取り出す事は出来ない。空爆1回、1億円。支出もあれば、また収入もあり。これでは戦争は終わらない。思想の溝など埋める必要なし、と云う訳か…
そして不穏な空気、または不安の種、兆しが何処から始まったのかは、もはや問えない。いや何処からであるにせよ、妄想でなかったのは事実である。この国の平和な時代にも、その種は温存され何処からでも芽吹く機会を待っていたのか…
15年 シャルリー・エブド襲撃事件からわずか2週間後、 ISIL による、2名の邦人拘束に基づく身代金要求。報道は、ほぼリアルタイムであったが2週間弱、この国の虚しいやりとりの半ば両名とも処刑。 同年 晩秋、パリ同時多発テロ。120人が殺害。 同 ISIL による犯行声明があった。
そして改めて15年末、この3者による展覧会「Aライン」そして「事変」合意の場面に接続する。思えばこの展覧会は、そのプロデュースないしディレクションを含めた、仕掛けのある企画として、そこからスタートしたのであった。
明日はまた何が起きるのか… " (on the Incident) " の ( ) が不要と成るのは何を意味するか… 機は熟した。時は今也、とはこの事である。私にとっては、上に見る事象一切が、充分な外発的要因となり、内発的な憤りが事柄の情報収集を開始させた。伝えなければならない事は、「事変」或いは「原初の恐怖」は、我々一人一人が自ら克服して行かなければならないと云う事。こうした経緯によって、外発的要因は、完全に内発的要因と一致した。制作に於ける、この表現の変化は、時代の要請と云っても過言ではなく、現実の理があるとは、正にこの事である。然れど驕り昂るなかれ。そして、展覧会趣旨が初めて言葉となったのは、開場前日であった…
展覧会 "Take the A line (on the Incident) " 2016・5・9 開催。それは、コラボ展を越える、コンセプト展と成し得たか… その行方は、また見る人が作り出すものである。おわり。
2016年 8月15日
思えば、その晩年の山岸さんには、「文章を書け、書け」と、強く御指導を頂いた。顧みて骨身に沁みる。生来ずぼらで、と開き直るなどもっての他だが、どうやら最後に書いた文章から、3年以上経過してしまった様だ。今回、本論執筆については、冒頭数十行で一気に座礁。いささか心身に変調を来たしていた様にも思う。そんな時、今回展評を依頼していた宮田氏が来廊したのだが、画廊、制作、執筆と今回の展覧会の内実にも触れ、色々と苦渋はある等の話をしてしまったが、彼はそれを充分理解した上で、評論家はまた、そうした作家の精神をケアする役割も果たさなければならない、とした趣旨の事を云われた。転覆は免れた。私にしてみれば、その言葉だけで、充分士気を上げる事に繋げられ、本論を結ぶ事が出来た様に思う。重厚な評論文の提供と共に、この場を借りて深く御礼申し上げたい。
そして、本論に於ける年号記述だが、時代背景の何がどこに符号しているのかは、それぞれの読者にお任せしたい。私には、ばらばらになりかけていた事象が、戦後71年にもう一度、理解の袂に集まろうとしているのか、とさえ感じられる。この展覧会の目的は、鎮魂か、反戦か… 実は、解決されていない時代の問題と、ナンピトの責任故か、私には、今のところ結論は出せない。ただ、時代精神の欠片であれ、観者、読者の心に届けばと願うのみである。
また、作品にも本論にも時間的推移があって盛り込めなかったが、16年3月 ブリュッセル連続テロ。予測出来ていたことが現実に実行されてしまう。 同年7月 ニース トラック単独テロ。後者にあっては、もはや直接の指示なく、ネットによって短時間で自ずからを洗脳。10年前ならアニメか映画のプロットと云ったところの Stand-alone 型犯罪が現実のものとなってきた。挙げ句の果てには、ヒトラーまで降りて来る始末だ (相模原障害者施設殺傷事件) 。表向き如何に正常視出来ても、心身耗弱と云った状態は見抜けない。宗教もまた、表向き良きもの悪しきものの判別が出来ないものが多い。それらは、脆弱な状態にある精神には、容易く浸透する事が出来る訳だ。実にテロも大量殺戮も、とっくの昔から隣に座っていたと云えよう。そして、熊本震災、3基目の原発再稼働…
神はいないが、暗い闇に心を落とさず、逃げず、拮抗し、絶望しても克服するしかない。私達の本当の闘いはここから始まるのだと云える。
最後になりますが、震災、テロ等「事変」に巻き込まれて、犠牲になられた多くの方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
2016年 8月 盛夏
"Take the A line (on the Incident) " 2016.05.09-05.21 事後報告集
スピリットプロダクツ株式会社 2016年11月25日発行 より。
なおこの報告集は、現在も SPC GALLERY にて無料配布中です。
再掲載日: 2022/03/19